二人で暮らしてゆくために
033:全ては君のためと言いながら、僕は引き金をひく
追い詰めるのは好きじゃない。腐臭のする路地裏で、自棄になった男の頭部に向かって照準を合わせる。引き金を引く。消音機がないので案外大きな音がした。だが実力次第と自己責任の路地裏ではそれさえも埋もれてしまう。飛び散った血潮や脳髄はいつしか乾燥してはらはらと砂粒のように潮風に飛ばされるだろう。仕事はこれで完了だ。死体の始末までは言われていないし何もかもを消費する路地裏への放置は自然消滅にも似ていつしか話題にものぼらなくなる。何かが頬を伝う感触があって拭う。紅い。衣服を検める。黒い上着や外套、内側へ着ているシャツの白い襟にさえ血は飛んでいなかった。それでも、初めて人を殺した時は。葛は手の中の小型拳銃を見据えた。人体や戦力の殲滅を目的とするような軍属であった頃もあったのに、葛が初めてこの本業で後始末を命じられた時は醜態を見せた。飛び散る脳髄の透明な白さや吹き上がる深紅に葛は意識する前に激しく嘔吐した。今ではそんなことはない。心臓も特に驚きもせずとくんとくんと規則正しい鼓動を打っている。
ごり、と音がして後頭部に固いものを感じる。周辺の皮膚感覚から推察するに銃口だ。葛は驚きも怯みもしない。拳銃を持っている手を下ろしてゆっくりと振り返る。銃口は少しずれてから葛の白い額の真中へ据えられた。
「ちょっとくらい驚けよ」
あっけらかんと笑って話すのは葵だ。本業の方の同業者でもあり、共同生活を営んでいる。葵はあっさりと拳銃を隠しへしまう。路地裏へ出入りするだけあって二人ともがただの世間知らずではない。
「はやく行こうぜ。残飯狙いが手を出せないってさ」
港湾へ浮いた、頭部を打ちぬかせた死体を誰かが長い棒で引き寄せているのが見える。流れ弾で死んだ者の所持品の所有権は先着順だ。葛は葵に倣って路地裏を歩きだした。
どんどんと奥深くへ進んでいく。昼間の食事はひいきの店の店屋物だ。夕飯は基本的に葵と葛が交代して作っている。
「おい、どこへ行く」
「美味い料理屋を見つけたんだ。まだ残っていればいいんだけどさ。酒と料理は美味いぜ」
庭先のような茂みを抜けて私道のように舗装されていない砂道を歩く。ある程度踏み固められた高い土だ。通りへ平然と幌の様な屋根を伸ばし、不揃いの椅子と円卓が並んでいる。それぞれに客が座り食事をしたり煙草を喫んだりしている。葵はすぐに空席を見つけて座ると給仕に現地の言葉で何事か言いつける。給仕も現地の言葉で応える。離れて行ってすぐに瓶とグラスが持ってこられた。葵が固い円卓の縁を利用して栓を開けるとグラスへ酒を注ぐ。ほんのりと柑橘系の様な果実の甘い香りがした。
「杏露酒だからそんなに強くないはずだ。食前酒ってことで。料理は適当に頼んだから。食えないものはないだろ?」
葛の家柄は自負の強い家風であったから我儘は全てにおいて赦されなかった。食事もそうだ。献立に嫌いなものが並ぶと残しても怒られるし、かといって代わりの何かがもらえるわけでもなく腹を減らすだけだ。自然と何でも食べるようになっている。黙るのが葛の返事だ。葵も承知しているから怒りもしない。勝手にペラペラと話している。そのうちに給仕が料理を並べだし、葵が代金をその場で払う。いくつかの惣菜に箸をつけながら葛の食は進まない。真鍮の箸がからりと金属音を立てる。
葵は知らぬげに自分の割り当てを消費していく。美味いだの不味いだのもっとこうすればいいだのと生意気な口も利く。その葵の肌や髪が大通りのけばけばしい広告灯の明かりで色を変える。白色が照れば葵の肉桂色の短髪や双眸は透明感を帯びて潤み、紅く点滅すればぷくりと厚い唇に紅がさす。土地柄として油を使った料理も多いからその艶や照りで葵の唇が化粧したように艶やかだ。
「オレの所為にすればいいよ」
葛の箸先が止まった。
「オレと暮らすために人を殺すんだって。オレのために人を殺すんだって思えばいいよ。今までの葛の境遇なんてオレは知りようもないし…知りたくないと言えば嘘になるけど根掘り葉掘り聞こうとも思ってない。二人で同じ屋根の下で暮らすために、オレはどんな仕事も受ける。葛も同じだろ。受けるしかないんだ。拒否したら次の日にはもうお前がいないかもしれない。そんなのオレは嫌なんだ。だからそんなオレのために葛は人を殺すんだよ」
葵はもぐもぐと口を休めない。それは料理が美味いと言うより箸や指や顎を動かす動きの結果の様でもある。葛は独り被害者ぶっていたことに自嘲した。葛にこうした仕事が舞い込むなら葵にないわけもない。それでも葵はこうして暮らしていく。葛は改めて箸を取った。惣菜は美味かった。
葵は杏露酒を空ける。
「桂花酒。あとはそうだな、桜花酒を頼むよ、両方瓶で」
葵が追加注文をつける。葛が気づけばすでに先に頼んだ杏露酒の壜は空に近い。
「呑みすぎだ」
「カタいこと言うなよ。強いのは桜花だからさ。桜の酒だよ。ちょっと故郷を思い出すだろ? 沁みとおるんだこれ。前に試して病み付きになった」
給仕が二つの壜を携えて戻ってくる。琥珀と薄紅の液体の満ちた瓶を置く。葵は気前良く心付けまでつけて給仕を帰した。
「自信がないなら、桂花にしとけよ」
「頂こうか、桜花を」
桜は軍属内でも人気のある花だった。
葵は欧米人のように口笛を吹いてから、桜花酒の栓を円卓の縁で器用に開ける。葛はグラスに残っていた酒を干すと空のそれを差し出す。葵は片眉だけ意味ありげにつり上げたが薄紅色のそれを注いだ。早速口元へ運ぶ。ふわりと優しい桜の香りと裏腹に酒はかなり強い。舌先がびりりと痺れた。頭がふうわりと軽くなるような気がする。
「まずったなぁ」
葵が円卓に突っ伏した。料理の皿がかちゃかちゃと音を立てる。葵の上目づかいはきょろりとしていて愛くるしい。小動物でも相手にしているかのようだ。一筆化粧筆で刷いたように長い睫毛がぱちぱちと瞬いた。
「酒に酔った葛の色っぽさ、忘れてた。抱きたくてしょうがないよ」
「酔いつぶすつもりじゃなかったのか?」
くふんと妖艶に笑う葛に葵はもろ手を挙げて降参した。
「そのつもりだったけど! オレの方が限界だよ」
「ならば席を立つか。……俺も今は、そういう気分だ」
葛は針金の取っ手がついた桂花酒の壜を取ると席を立って歩き出す。会計はその場で済ませているから円卓が一つからになるだけだ。葵が慌ててその後を追う。葛がぶら下げている酒瓶の中で泳ぐ花は広告灯の明かりを含んで紅や白光、蒼や碧へ変化した。手下げランプの様なそれは、葵を葛が沼へ引きずり込むような前兆にも似た。
葛は酔いのまわった頭のまま、このまま葵に抱かれても構わないと思っている。その行為が何をもたらすかを葛は知りながら見ないふりをしている。泥濘や暗渠や蟻地獄や砂の虚へ足は疾うに嵌まっている。抜けだすのは難しいだろう。そのくらいには葛は葵が好きだ。酒で軽くなった足取りでふらふらと葛は路地裏の深部へ向かう。葵はとことことついてくる。葛ちゃん、いいの? 無理しなくていいんだよ? オレなんかでいいの? 質問を全て無視して葛は歩みを進めた。
「葵、俺は思う気がする」
葛の漆黒のぬばたまの闇が広告塔のけばけばしい点滅に煌めいた。
「誰か一人殺すたびに俺が一人死んで、だがお前と会うたびに俺は一人生き返る。誰かのためという言葉は誰かの所為と同義だ。それでも。そのリスクを背負ってでも、俺はお前と関係していたい」
くるりと踵を返す。桂花酒の琥珀が艶やかに照った。それ自体が発光しているかのようだ。
葵が気づけばそこは袋小路だ。路地裏の袋小路は暗黙の了解で行為の場になっている。空いていれば占有し、ふさがっていれば遠ざかる。葛がその意味を知らぬわけもない。
ごと、と桂花酒の壜が置かれた。葛が外套を脱ぐ。それが応えだ。
「葛、オレは、…オレは本当にお前が好きだ。世界中の誰を犠牲にしても構わない」
「賢しらな口を利く」
葛がクックッと笑う。上着の釦が外れて発光したように白いシャツは葛の体の部位を暗示するように陰影が透けた。葵は噛みつくように葛の唇を奪い、抱擁した。背骨が軋む。葛の体は戦闘訓練を受けているだけあってしっかりとした感触がある。
「言い訳でもいい。俺はお前に、好かれていたい」
葵が葛を押し倒した。頭上をサーチライトのように、シンボルタワーの紅が舐めていく。けばけばしいような電飾のそれにさえも埋もれた闇の中で二人の体が蠢いた。淫靡に蠢き這いずりながら長い脚が絡む。
「葛、オレのこと好き?」
「話を聞いていないのか? 好きだと言ってる」
ぬるついた舌が絡みあった。
《了》